金印・邪馬壹国研究会
や ま と
当「金印・邪 馬壹国研究会」では「秘められた邪馬台国 」 (梓書院刊 八尋秀喜著)を参考にして検討を進めています。
しかし、他に納得出来る考えや資料等が有れば柔軟に修正して自由に研究検討を進めていますので建設的なご意見をお寄せください。期待しています。
ただし、根拠のない感情的な反対は厳にお断りします。また、匿名もお断りします。
連絡、返信することも有りますので、必ず正確な住所氏名年齢、職業、邪馬台国に関連する著作があれは書籍名、電話番号を明記してください。
個人情報を他に漏らすことは有りませんが、寄せられたご意見や研究内容は当研究会やネット、著作物等で氏名と共に公表する事が有りますので、ご留意下さい。
因みに、現在までのところ、賛同する意見が100通ほど、建設的な修正意見が1通、根拠理由のない感情的な賛成意見が10通ほど、反対意見が2通、そのほか意味不明な書き物が1通寄せられています。
01 対馬海峡の波高について
古代船(準構造船)を復元した航海実験(大王のひつぎ海を行く。海鳥社2006刊)「野生号」の航海実験(1975)によると安全に航行出来るのは波高が50㎝以下と書かれています。(p28)
公開されている壱岐、対馬海峡(若宮)の海上気象データー(1977~1987)を、この条件で調べてみると
古代船が対馬海峡を航海できる時期は5月下旬から8月下旬の間で、10年間の平均日数はおよそ30日です。
このデーターから推測すると古代船が対馬海峡を航行できる期間は5月下旬から8月下旬の間、およそ30日となります。(10年間の平均)
02 対馬海峡における古代船の航行速度、能力について
古代船(野生号)の航海実験によると「対馬海峡での航行速度は2ノット(2*1.85=3.7km)が可能であるが、一日に漕ぐ事ができる稼働時間は5時間が限度である」と書かれています。これによると古代船が一日に進む距離は18.5㎞(3.7km/h*5h=18.5km)になります。(p27)
釜山から博多までの距離は、およそ190kmなので古代船が対馬海峡を縦断するのに必要な日数はおよそ10日になります。
03 魏の使者が倭国に滞在出来る日数について
古代船の対馬海峡を縦断するのに必要な日数が10日ならば、往復に20日を要することになりますので、航行日数30日の内、倭国での滞在日数はおよそ10日になります。
魏からの使者が湊に到着すると「伊都国、一大卒」の役人が積み荷を検査するのに1日、女王に届けるのに一往復、舟の修理と持ち帰る積み荷の整理に3日を要したとすると(10日-4日)÷一往復=3日となり、邪馬壹国までの距離は湊から3日の距離、およそ60km程となります。(p56)
04 邪馬壹国 の場所について
伊都国の湊「今津」から南に進み曲淵を越えて背振山の裾を迂回するか坂本峠を越えれば、およそ60kmで筑後川に達します。
地形や遺跡の状況から「邪馬壹国」の都を「吉野ヶ里遺跡」、集落区域の東西を筑後川河口から朝倉まで、南北は筑紫付近から筑後川までと考えます。(p69)
05 倭人伝に登場する国々の比定図
魏使倭人伝の記述を見ると對海国(対馬)については
山は険しく深林が多い。道路は鹿が歩く小道のようである。
家は千戸ほど有るが良田は無い。海産物を食べて生活している。
舟に乗り米を南北から買っている。(p96)
一大国(壱岐)については
竹林や雑木林が多い。三千戸ほど家がある。田畑は少なく食物が足りない。この国も南北から米を買っている。(p97)
末蘆国(松浦)については
山裾や浜辺に4千戸余りが生活している。
草木が茂り、前の人が見えない。海に潜るのが巧みで魚や鰒を捕っている。
伊都国(怡土)については
千戸余りで代々、王がいて女王国に従属している。郡使が常に止まるところである。(p97)
奴国(那珂)についてはは2万戸余りある。
不彌国(布奈美、穂波)については千戸余りの家がある。(p98,63)
邪馬壹国(筑後川下流右岸)については
7万戸余りある。女王国より以北の国の戸数や道のりは大体分かるがそれ以外の国は遠くて詳しくは分からない。
投馬国(薩摩)については5万戸余りある。と書かれている。
倭国への旅程図
魏の使者は狗邪韓国(プサン)から10日(水行)ほどで伊都国の湊(今津)に到着します。直ちに一大率の係官が情報を女王国(邪馬壹国)に報告し、積み荷を検査します。
その後、50㎞程南の女王国に3日かけて届けることになります。7日ほどで伊都国に戻る旅程です。釜山を出航してから一月ほどで帰港します。
プサンから南へ20日(水行)すると投馬国に到着します。
洛陽から楽浪郡までは5,000里(郡国志5,000里×430㍍=2,150㎞/21.5㎞/日=100日)、帯方郡から狗名韓国までは7,000里(650km/21.5km/日=30日)、邪馬壹国までは12,000里(魏志倭人伝)と書かれています。このことから狗名韓国から邪馬壹国までは5,000里(10日+10日=20日)であることが分かります。
また楽浪郡と 帯方郡は近接していたとされていることから、洛陽から邪馬壹国 までは、およそ17,000里(100日+30日+20日=150日)となります。このことから洛陽と邪馬壹国 の距離は片道およそ5、6ヶ月、丁度一年で往復する距離、行程になります。
邪馬壹国からは7月頃出発して1月頃洛陽に着き、翌年の8月頃に戻る事になります。
洛陽からは1月頃に出発して7月頃、女王国に着き、すぐに帰国する事になります。対馬海峡の荒波を考えれば、これ以外の行程は無理です。
ご意見お待ちします。
弥生期の博多湾沿岸図
06 比定区域の石斧・石包丁の出土分布図
上記05で比定した国々の集落と石斧・石包丁の分布が良く重なっているのが分かります。
因みに、石の産出地「今山」は伊都国の今津に隣接しています。
また、「立石」は不彌国の笠置山の事です。
07 上記04の結論と倭人伝記載、旅程「水行10日と陸行一月」との整合性について
「魏志倭人伝」とは陳寿が3世紀に 編纂した「三国志」を構成する「魏書」に登場する二千文字程の条文を指しますが、その性質上、古い資料を寄せ集めて書かれた風土記の様な歴史書です。
この書には倭国までの旅程や国の様子、風俗等が書かれていますが、邪馬壹国への旅程につい ては非常に曖昧に書かれています。このことが多くの説を生じさせる要因になっています。
邪馬壹国の場所について倭人伝に「南に舟で10日、陸を1月進むと女王の都・邪馬壹国に着く」と書かれています。これを「釜山から南へ舟で10日進むと倭に着く」と解すると文書の前半は整合しています。
しかし、後半「陸行1月」が厄介です。
一ヶ月に歩く距離は600kmになりますが九州を一周してもまだ余ります。加えて、通過する国名、地名が全く書かれていません。どこで魏使一行は寝泊まりしたのでしょうか? 食べ物は?「陸行1月」の記述は何処か間違っている筈です。(p44)
08 邪馬壹国遠大化の必要性について
倭人伝には「帯方郡から狗名韓国まで7,000里、女王国までは12,000里」と書かれていますので、狗名韓国から女王国(邪馬壹国)までは5,000里となります。また狗名韓国から伊都国までを3,500里としていますので、伊都国から女王国(邪馬壹国)までの里数は1,500里になります。この1,500里を確保するために陸行一月(距離30日*50里/日=1,500里)を入れたものと思われます。また、「後漢書、郡国志」には魏の都「洛陽」から「楽浪郡、(帯方郡)」までは5,000里とかかれていますので、洛陽から女王国(邪馬壹国)までの距離はおよそ17,000里と書かれていることになります。
この里数17,000は「後漢書、西域伝」に洛陽から西の「大月氏国」までの距離は16,370里と記されている事を意識して、東の「邪馬壹国」までの距離を遠大化したと考えられます。
09 倭人伝に書かれた伊都国と邪馬壹国の位置関係について
倭人伝には「女王国より以北の国や道のりは大体分かるが、それ以外の国は遠くて詳しくはわからない。
南に男子王の「狗奴国」があるが、女王には属していない」(p99)
「女王国の北に「一大卒」という役所を置いて常に諸国を監視している。
この役所は常に「伊都国」に置かれていて、郡からの使者が倭国に行くときには、舟の着く海岸で贈り物を点検し、女王のもとに運ばせている。」(p104)と書かれています。
この事から邪馬壹国は伊都国の南にあり、係官や贈り物の安全を考えると二つの国は接している事になります。 これは 04の結果と合致します。
10 邪馬壹国の読み方について
倭人伝には宗女「壹與」(トヨ)の文字が3箇所、「邪馬壹国」 の文字が1ヶ箇所書かれています。「壹與」の「壹」は「ト」と呼ばれるのに「邪馬壹国」の「壹」を「臺(タイ)」と呼ぶのは間違っています。邪馬壹国は「ヤマト国」と呼ぶべきです。
建設的なご意見を求めます。
11 卑弥呼の墓は何処か
倭人伝には「邪馬壹国の男子王では七八十年間、国中で争いが絶えなかった。そこで、国々は協議して一人の女子を王にした。その名前を卑弥呼と云った。鬼道が巧みで人々を惑わせた。歳はかなりの年齢だが夫や婿はいない。」と書かれています。(p82)
新しい女王は平和的に男子王と交代していることから、邪馬壹国の男子王と友好的な国の娘でなければなりません。また、国々も従っていることから有力な国の娘でなければなりません。
その可能性が最も高いのは代々、王が存在していた伊都国の王の娘です。卑弥呼は独身なので墓を実家のある伊都国の父親の近くに作ることは十分考えられます。
お墓なついては次のように書かれています。「死ぬと棺は作るが墓室は無い。盛り土して塚を作る。卑弥呼は径百歩余りの大きな塚を作った」
これらのことから卑弥呼の墓の特徴としては
①首飾りや耳飾りなどの装飾品が多いこと。
②逆に剣などの武具は少ないこと。
③卑弥呼(日巫女)が持っていたと考えられる太陽を表す大きな鏡があること。
④西暦248年頃に作られた石室のない円墳であること。などがあげられます。
これらの条件に合致するのは糸島市の平原古墳だけです。
12 平原古墳出土の大鏡について
この古墳からは直径46.5㎝の内向花文鏡4面が出土しています。この大鏡 の円周長は146㎝ ( 46.5㎝ ×3.14=146.0㎝)になりますが、八咫 の長はおよそ 23㎝×0.8=18.4㎝ なので、この鏡は八咫の鏡です。(146.0÷18.4=7.93)
卑弥呼(日巫女)以外に誰が八咫の鏡を持っていたのでしょうか。
13 金印「漢委奴国王」発見の場所について
この金印が発見された経緯については、志賀島の農民「甚兵衛」が天明4年(1784)那珂郡役所に提出した口上書が残っています。それには「叶崎にある私の畑の溝の石を取り除いたところ、金印が出てきました。」と発見の経緯が書かれています。
百姓・甚兵衛の口上書(写)
14 金印贋作説について
「金印は江戸時代に作られた贋作だ」との説がありますが、昭和56年(1981)に中国東部で発見された「廣陵王璽」(58)の印面の「王」の 文字と一年前に製作された「漢委奴国王」(57)の印面の「王」の文字がそっくりです。
この二つの金印は同じ工房で製作された可能性が極めて高いといえます。江戸時代に昭和で発見される印面に似せて金印を作るなどあり得ません。
贋作などあり得ません。
15 金印の出土場所
16 金印「漢委奴国王」を賜った王は誰か
この金印の文字は「後漢書倭伝」に「建武中元二年、倭奴国の大夫が朝賀に来た。光武帝は印綬を授けた」と書かれていることから「委」は「倭」の減筆として「漢(カン)ノ委(ワ)ノ奴国王 」と読まれる事が多いが、印影を減筆するとは考えにくく、素直に「漢(カン)ノ委(イ)スル奴国王 」と読むべきと考えます。いずれにせよ、この金印は奴国王が賜った物です。
この印影を「漢(カン)ノ委奴(イト)国王 」と読んで、伊都国王の印とする説もありますが、後漢書記載と矛盾しますので少し無理がありそうです。
この金印の印綬は卑弥呼の時代から180年程遡ります。この頃は奴国が倭を代表していたと思われます。その後、大乱が100年以上続き卑弥呼が誕生した事になります。
ご意見をお寄せ下さい。
参考図書名 八尋秀喜著
「秘められた邪馬台国」(梓書院刊) 「道中記卑弥呼の都・邪馬薹国」(諷詠社刊)
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ご意見は
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お間違えの無いようにお願いします。 文責 秀峰雲水
金印・邪馬壹国研究会
福岡県糸島市